- 山原香央理
認識

椅子に座って話する時って、あらかじめ用意しておいた話をすることは少ない気がする。
自分の持ち合わせた知識・情報・経験値から感じた事、そこから『会話』をしている人が沢山。
ふたつある椅子のうち、ひとつに自分、そして、もうひとつに相手、その相手は、自分を引き出してくれる人の時もあれば、自分が引き出す時もあって、その中でお互いが同じように感じている時、共通点を感じる。
以前、「好き」という特別な感情 というタイトルでブログを出させていただいた事があった。
自分で後で読むと、日常の私からは考えられないような言葉の楽しさに時めく。
私を合唱伴奏の世界に引っ張ってくださった本山秀毅先生が、22歳の頃、フェスティバルホールの本番のための練習に、フィギアスケートで有名な大学へピアノを弾かせていただきに伺っていたとき、「〇○←旧姓、なんでもいい、絶対続けろ、どんな所でもどんな時でも絶対続けることが大事やで」
そうおっしゃてた。
そしてあれからうん十年経った今も、続けている。奇跡だろう。
諦めようとか諦めないとか自分で認識する事もそうなかった。
人のためだとそういう気持ちが起きるくせに。
自分の事は、愛されていることがわかっている事で十分なのに。これ以上、贅沢なんじゃないかと思う時がほとんど。
しかし、時に、「愛」とは、大変なものだ。
愛から褒めてもらおう、ある程度の点数をもらおうとするなら、かなりの努力と忍耐力と強い精神力が必要で、ひとつの仕事を終えたらほとほと疲れる…(笑)
私は、いつこの世を去ってもいいと思って20代を過ごしてきた人間だけど、
その感情はどこから来たのか。
自分が産まれた事で、申し訳なさでいっぱいになる事が多かったからか。
だからと言って、イジメにあったということもなく(転校生を何度も経験したので、言葉の壁はあったと思う)いつも誰かが声をかけてくれて、ひとりでいたとして、泣いていたとしても、実際にはいろんな人の優しさを感じていた。
いつも聞こえる
「そばにいて、何もしてあげることが出来なくて」って。
そんな事相手に言わす自分は最低だと思う。
それでも生きられるんだなと、今日も感謝する。
いつも椅子に座れる場所を作ってくれて、
アリガトウ。